見出し画像

Past Masters|製品で振り返るイシダテックの歴史

個人創業75年を目の前に


弊社の歴史は1台の中古旋盤を購入した1948年3月1日に始まりました。
18年後、1966年7月26日には株式会社石田鉄工所として法人成り。
1989年4月20日には製造部門・資材部門を分離して株式会社イシダテックが生まれ、最終的には業務を全面移管し今日に至っています。

(発明家たちはどうしたら人々がもっと快適に、便利に暮らせるようになるかを考えていたから)「発明の原動力は『優しさ』なのかもしれません」
とも述べた創業者、石田稔氏は焼津のエジソンと呼ばれ、ユニークな機械を多数生み出した発明家でもありました。

そんな弊社の歴史、過去の独創的な製品から振り返ってみます。
創業者については以下の記事でも冒頭でご紹介しました。お読みのみなさんにも(社員にも)改めて過去の弊社も知っていただきたいので、今回はビートルズさながらのタイトルです。Volume2もあるかも…?


製品には組織のすべてが詰まっていた


改めまして、総務部のこやまです。
最近ある取り組みの中で、過去の製品について調べることがありました。
メンバーシップでは少しずつ小出しにしていたのですが、製品開発の裏話や開発背景には深いエピソードが多数あることを私自身も再認識しました。

今回は代表例と言えそうな3つの機械を詳しく(非エンジニアかつ生まれてすらない時代の話で恐縮ですが)語らせていただこうと思っています!

紹介資料もたくさん作っていました


①みかん自動剥皮装置


新案機械はいわゆる定量充填機である ”みかんシロップ注入機” や まぐろをフレーク(薄切り)する "マグロフレーカー" を昭和25年(1950年)に製品化したように、当製品開発以前にも多数存在しています。

しかしながら、イシダテックのルーツ、ここにあり―。
そう言って間違いないほど、独特な発想とお客さまに寄り添う姿勢によって作られた当時においては最先端の機械でした。

新案機械… 製品開発後取得した特許・実用新案の数々は独創性の証明です。
現在正確な数を調査しています…!(こやま)

ちなみに伝統の機種であり
新鋭の機種でもある(?)


昭和より静岡県の基幹産業であった「缶詰製造」


機械自体の話の前に、静岡県と缶詰の歴史を話しておきます。
今日まで缶詰王国とも称される静岡県。この装置を製作した当時、製造工程は人手に頼る部分が大半でした。

人手に頼る工程がほとんどで多くの女工さんが働いていた
(弊社会議室に設置している写真)


そんな中人手不足が顕在化。最も時間・人手(それも熟練の)が必要とされ、原始的と表現されていた工程である "みかん皮むき" 機械化構想を始めます。

「本県の主産物であるミカン缶詰の製造業者がその発表を待ちわびていた」そうで、「大勢の女工さんたちが手でむく」ことに代わり、1分間に60~80個のみかんの皮を、”果肉を少しも痛めずに” 剥く装置の構想です。

ご興味をお持ちの方へ:時代背景的な話の補足
そもそも缶詰自体は戦時のレーション的役割にはじまり、やがて非常食へ。
缶詰王国・静岡県は昭和4年(1929年)に静岡県水産試験場がまぐろ油漬缶詰を試作・輸出しニューヨーク市場で試販され好評を得たことにはじまる。
(多くの人手を用いて製造されていたため、昭和初頭は世界恐慌による失業者の受け皿にも)

冷凍技術は優れていない環境下であった当時。
夏は焼津港・清水港で水揚げされた「マグロ/カツオ」を。冬は一大産地で競合も少ない「みかん」を季節工も雇って缶詰に加工。
丸1年稼働可能な工場で作られた缶詰は清水港から輸出され……。
そんな立地条件的優位性や、円ドル固定相場制に基づく恩恵など、様々な背景が缶詰王国の裏側にはあったものと推察されます。 

静岡県缶詰史をさらっと読みました(こやま)


装置の全貌


「皮むき」を行う部分の写真がこちら。
当時果肉を少しも傷つけずに表皮をむくことには相当苦心をしたらしく…、ゴムまりを使って、実際に人間がみかんの皮をむくときに入れる力を計算、圧搾空気を使うことで一定の力(約1キロ)を加えることを考案しました。

全国各地で育ったみかんを使った試験もしたらしい
最終的には皮はローラーで巻き取るので、
ここでは皮を ”割る” が正しい表現かもしれない

前後工程について
①まず蒸気を使ってみかんの表皮を柔らかくする
②柔らかくしたみかんをベルトコンベアに載せ ↑ 写真の部分に送り込む
③四方から伸びる "ツメ" が表皮に刺さり、上下に開く動きで皮を割る
※圧搾空気の力で大きさや形の違いによらず一定の力を加える
④表皮を割ったみかんを細いローラーが円筒形に組まれた分離機にかける
⑤分離機のローラーが回転、割られた表皮にひっかけ、皮をむく
※当時の表現では「洗濯物のしぼり機の要領」


異次元の発想力とそのきっかけ


みかんは当然食品という自然物。
形状も一つ一つ異なることに加え、品種間でも相違点があるはずです。
爪を刺し、上下に引っ張れば果肉を傷つけず皮がむける……?
そう言われればなんとなく想像こそつきます。言われればですが―。


発想のヒントは身近に


発想に至るきっかけは研究に着手した昭和37年(1962年)10月21日。
そうです(?)日本シリーズで東映が優勝したんです。笑


胴上げを理髪店で見て、ひらめく


聞いた感じは全然みかんと関係なさそうな出来事。
しかし発明のヒントはこのテレビ中継にあったようです。
記事サムネイルで胴上げされているのは東映フライヤーズ水原監督。
創業者である「焼津のエジソン」は理髪店でこの場面を見てひらめきます。


大勢の選手の手がもし宙に浮く水原監督の身体を固定していたら、
何十本かの手によってユニフォームはむしり取られるのではないか?
だったら、同じようにみかんの皮も―。


つまり…… 
こちらは先ほど掲載した装置を横から見た図
固定された手(金属の爪)がユニフォーム(皮)を割る
そして後工程でローラーが皮を巻き取る
そうすることで大きさも異なるみかんが…
きれいにむける…

恐るべきはその発想力でもあるのですが。
加えていつ、どんな時もお客さまのことを考えているからこそ、身近な事象が大きなひらめきのヒントになるし、突然思いつくことも。
山村さんをはじめとする弊社の設計担当者達の言葉にも表れていたように、まさにイシダテックのルーツといえるものと思ったのでご紹介しました!

こちらのインタビューもぜひ!


②各種殺菌機


弊社はお客さまのご要望に応じて機械・装置を製作します。
原料処理~搬送まで多岐にわたる工程で納入実績がありますが、「殺菌機」に関しては弊社の歴史を語る上で特筆すべきものです。

中でも昭和63年(1988年)の新聞記事によると、昭和32年(1957年)頃本格発売した果実缶詰用低温殺菌機は、全国の果実用缶詰工場の8割が同装置を導入しているといわれるほどのヒット商品、とも紹介されています。

シェアのファクトまでは明示できませんでした…

長期保存の観点で缶詰生産に欠かせない殺菌工程におけるロングセラー。
食品の命である味・色・香りを損なわないために、中心温度と外周の温度を平均的に保つことがセールスポイントだった。全国発明賞・特許も取得。

装置は大小様々なサイズが存在しています
古いものではこんな写真も


石田鉄工所と殺菌機の出会い


私の調べた限り、弊社と殺菌機の出会いは昭和26年(1951年)まで遡ります。実用新案機械2種(みかんシロップ注入機・マグロフレーカー)の考案翌年、「ヨツビシ式みかん連続低温殺菌機」の修理請負がはじまりです。


修理を経て、わずか3年後


わずか3年後の昭和29年(1954年)、石田鉄工所は大型殺菌機を製作します。

後に果実缶詰用低温殺菌機や、ガロン缶用自動殺菌機、袋詰め自動殺菌機、ビン詰自動殺菌機等と幅を広げ、殺菌機関連では特許も複数取得。
求められる能力や、容器の変化にも対応しながら少しずつ形を変え、「秘密兵器」として現代でもお届けし続けています!
(2021年にも袋物:パウチ用の殺菌機を製作した実績があります!)

しかし順風満帆ではなく、苦労もされていたよう…
どのように幅広い知識を得たのか、答えはここに書かれています

‐‐‐‐‐
昭和24年(1949年)
たった1台の中古旋盤を買い入れ、ネジ切り加工でスタートした新会社も、仕事がだんだん細くなって来ました。
合間を見ては受注に出かけ、紡績機、自転車、映写機と旋盤でこなせる部品はなんでも手掛けるという具合でした。

一方、世の中はまだまだ物不足の時代、ある機械は、故障すれば、修理に修理を重ね、大切に使っていました。そんな世相を反映して、旋盤加工のほかにいろいろな機械の修理の注文がきました。

修理を次ぎ次ぎに手掛けているうちに、機械のメカニズムがだんだん自分の物になっていきました。

石田鉄工所 古文書(1978年発刊)
WHO WHEN WHAT No.9 石田鉄工所創業30年記念号 より抜粋
当時はお手本もなく部品も不十分
工夫しながら数々のラインを独力独創でつくり上げた


殺菌機製作裏話


初めて殺菌機を製作した頃はクレーンもホイストも存在しない。
輸送は鉄の車(鉄道)が主流でゴムの車(自動車)さえも少ない時代。
ジャッキで持ち上げ台車に載せたら、馬が引っ張っていったそう…。

ご友人のあたたかなお力添えもあった

余談ですが……
殺菌機のような大きな機械が搬出できなかった結果(?)工場移転を繰り返すことになります。その時ご友人に言われた「そんなに引っ越すなら工場に台車を付けとけよ―。」という言葉からオートラックという台車付き倉庫が生まれています。
この話は以前紹介した記憶があるので、今回はしません(笑)

当時のチラシ
ちなみに社内で1台現役で稼働中


③天蓋開閉装置


イシダテックは、個人創業以来、食品・医薬品製造現場へ成長に貢献する「秘密兵器」をお届けしている企業です。
しかしながらその過去を紐解くと、まれに異質な特許取得製品があります。
その一つがかつて焼津市昭和通り名店街に設置されていた、天蓋開閉装置。

開閉はボタン一つで!なのだそう


この天蓋、全長430メートル。
一度に全部でも、部分的にでも自在に開閉できるすぐれものです。

名店街のみなさまから、
「天気のいい時には天窓の開くアーケードを製作してほしい」
とご依頼を受け製作。食品以外の領域で活躍していた装置事例です。

歴史を感じる1枚

* アーケードは2001年に撤去されています。
製作当時は430mに渡って隙間なくお店が立ち並んおり、取り壊し前には、映画ウォーターボーイズのロケでも使用されたらしい。

「ご近所の評判を良くすることが(長寿企業の)一つの秘訣かもしれない」なんて世間一般では言われてもいることですし、地域のみなさんのご要望に技術の力でお応えしていた一事例です。


おわりに


わけあって過去の資料を調べることになったのですが、実はよくわからないものも多くて記録の大切さを学びました。笑
創業者である石田稔氏は独創的な発想力に目が行きがちですが、言葉選びや哲学まで、私自身も入社以来資料等を参照することを通じて影響を受けています。リスペクトしている "古文書" であるWHO WHEN WHATの一節を最後にご紹介します。今週もありがとうございました!(こやま)

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

―ごあいさつにかえて―
石田鉄工所は、社会とともに、また顧客の皆さま方とともに歩んでまいりました。どんな優れたアイデアもその時代にマッチしないものであれば評価されないように、どんな優れた機械でも、お得意様のご要望に沿ったものでなければ価値がありません。
―中略―
私たち石田鉄工所の全社員は、常に社会とともにあり、顧客とともに歩むことを忘れずこれからも社会とお得意様のご要望にあった機械を創って参りたいと思っています。(WHO WHEN WHAT No.9 石田鉄工所創業30年記念号)

▶HP

▶︎Twitter